「神戸みなと時空」展
KIITO(フラワーロードを南下して、2号線を渡ったところの建物)デザイン・クリエイティブセンター神戸において、1月25日から「神戸みなと時空」展が始まりました。12月28日まで開催されます。
パンフレットに書かれている久元市長のご挨拶を拝借すると、
「この企画展では、神戸ゆかりの文化や文学、産業などに着目し、神戸港が市民のくらしにどのような影響をもたらしたのか、また、わが国歴史の中でどのような役割を果たしたのかを振り返ることができる貴重な資料を展示しています。」
とあります。
具体的には、下記の3つの展示スペースで構成されています。
1 TOY&DOLL COLLECTION (日本玩具博物館とのコラボレーション)
2 陳舜臣と神戸ミステリー館 (神戸ものがたり)
3 鈴木商店記念館(日本一の総合商社へ)
まず、最初に
1 TOY&DOLL COLLECTION (日本玩具博物館とのコラボレーション)
日本玩具博物館のコレクションから、日本の郷土玩具、神戸人形、世界の船の玩具のほか、企画展として、ちりめん細工のコレクションが展示されていました。
神戸人形も多数展示されており、新作の展示は、動かすこともできました。
ちりめん細工のコレクションには、昔の型紙なども展示されていて、手芸好きの私としてはとても興味深かったです。
続いて、2 陳舜臣と神戸ミステリー館 (神戸ものがたり)
かつて陳舜臣先生の「枯草の根」や「青玉獅子香炉」などのミステリーを読んで、日常の生活の中に外国の文化が隣り合っているのを感じ、大変興味を引かれながら読んだものでした。今回、展示を拝見して、また、もう一度読んでみたいと思いました。著作の数々や、ご経歴、また、ペルシャ語の翻訳本なども拝見し、陳舜臣先生の幅の広さ、また、歴史書を書かれる奥の深さが再認識できると思います。
3番目の展示は、玉岡かおる先生の小説「お家さん」の主人公、鈴木よねさんで再認識されることになった鈴木商店に関連する展示です。 3 鈴木商店記念館(日本一の総合商社へ)
以前、予算市会で「お家さん」にまつわる物語を観光に活かしては?と質問したことがあります。神戸の中には、建物など鈴木商店に関連するものがほとんど残っていないので、難しい面があるということでした。鈴木商店そのものはなくなってしまっていますが、唯一鈴木の名前を冠した鈴木薄荷(株)の他、多数の優良企業に流れが汲まれ、礎となっています。
最後に、KIITOカフェで休憩しました。おしゃれです。
震災から22年
阪神淡路大震災から22年が経過しました。東遊園地には、たくさんの人々が訪れています。私も、献灯に行ってきました。
献灯の竹筒を見ると、神河町や、新温泉町の老人クラブなど、兵庫県のいろいろな地域の名前を見ます。離れた地域の皆さんが、この日のために準備してくれたんだなあと、何か、ほっとするものがありました。
当時、六甲道に住んでいました。私のマンションは無事(部屋はぐちゃぐちゃ。。)でしたが震度は7の地区。周囲の建物は、倒壊し、たくさんの方が亡くなられています。(徐々に知っていった感じです)電気も1週間止まったので、情報を取ることもできませんでした。それまでほとんど会話をしたことのなかったお隣のおじちゃんと一緒に公園でおにぎり1個をもらうために並んだ記憶がいつも真っ先に蘇ります。血だらけのジーパンをはいて足をけがしている女の人もやってきました。家から何も取りだせないということ。急いでジーパンなどを取りに戻りました。
おにぎり1個ずつを持っておじちゃんの家に帰りました。お隣のおうちには、主であるおじちゃんおばちゃんに、近くの実家から「お姉ちゃん、家、つぶれたわ。」とパジャマでやってきた弟さん、上の階のおばちゃん、反対側のお隣のおばちゃん(ご主人はいるのに来ていたなあ。。笑)、私と、6人で2、3日過ごしました。お隣が石油ストーブだったということもあったと思います。みんなでストーブの周りに座り、家にある食糧(私は出張明けのおみやげなどを持参しました)を持ち寄り、弟さんが避難所で聞いてきた情報と、ラジオの情報を頼って、余震の続く夜を過ごしました。自宅が半壊しているのに、割れためがねで当日の朝に見に来てくれた後輩もいました。
決死の運転で友達夫婦が真夜中に迎えにきてくれたので、その後、しばらく大阪の友達の家で過ごしました。神戸からそんなに離れていないのに、全く何事もなかったように、お店に品物が並び、普通の生活があることに驚きました。
寒い中、ご家族と自宅を同時に失われた方々、ご自身のお店や工場を失われた方々、これまで本当に大変な22年間だったことと思います。一昨日、17日の新聞に、「夢でも会いたい。」という記事が掲載されていましたが、読んで胸が熱くなりました。
改めてご冥福をお祈りいたします。
人は一人では生きていけません。助け合って生きる土壌を醸成したいという気持ちと、一人ひとりが周りに少しでも関心を持ってもらえるような社会にしていきたいという気持ちを再確認した22年目の17日でした。